CREATOR
- CREATOR INTERVIEW 03
- 池田 美智子
- 池田絣工房 プロデューサー
- 「人と人、久留米絣をつなぐ」が仕事
池田絣工房3代目・光政さんの妻で、自身も制作に向き合ってきた池田美智子さん。日々の暮らしからふつふつと湧き出るアイデアを形作り、世に送り出しています。「かつて創始者・井上伝さんがそうだったように、皆さんに久留米絣のお伝えしたい、着てもらいたい」と語る美智子さんの情熱の源泉について、お話をうかがいました。
働きながら、自分の居場所を作ってきた
―まず、美智子さんとこの池田絣工房、久留米絣との出会いについて教えて下さい。三代目である光政さんとは、もともとお知り合いだったんですか?
美智子さん:
夫とは、彼のいとこの紹介で出会いました。出会った時に「あぁ、この人なのかなぁ」って。その時にお話は全然してなかったんですけどもね、「この人だったら尊敬できるかなぁ」って思って。直感かな?結婚前は普通に事務のお勤めしてたから、身近に久留米絣に携わっている者もいない状態からですよ。周りからは、「織元の嫁は大変。向かないんじゃない?大丈夫?」って言われてたんですけど、自分自身は「この人だ!」って思ってね。8月に出会って9月に結納、それからもうその年のうちに結婚です。
- 久留米かすり池田絣工房3代目の池田光政さんと美智子さん
―じゃあ、三代目ご夫妻の始まりは「電撃結婚」からですね。美智子さんは、「まっさらな状態」で始められたわけですか?
美智子さん:
そうそう、そこから43年ですね。新婚旅行から帰ってきて、初めて久留米絣のあれこれに触りはじめた感じで。何をしたらよいかもわからなかったけれど。夫の母のチドリさんに「見ていたら少しずつ覚えていくよ」と言われて、最初はぬき割(横糸の分)を教えてもらって、次第に織りを教えてもらっていったのかな。
―そこから工房全体のお仕事を何となく理解されるまで、どれ位かかられたのですか?
工房全体を見るのは、結婚当時から夫がしてたんですよね。その頃は織り子さんが2,3人居て。今思い返したら、まだ皆さん60代ぐらいだったのかな。織り子さんがうちに来ると言うよりも、その方々のところに出す方が多かった。最初は、夫がしていることを見たり、織り子さんたちに教えてもらいながら織りました。本当の最初の頃は柄にもならなかったですよ。でもそれをしないといけないし、「私で大丈夫かな?」と思っていたけど。覚えてきて、綺麗に織り上がるのを見ると、嬉しかったのを思い出します。
―それこそ、出産や子育てと並行しながら?
そうですね。並行しながらやってましたね。結婚して43年。4代目の大悟が今・・・40?39?38!当時は工房の床が土間で、そこで子どもたちを遊ばせて仕事をしていましたね。おんぶをしたりだとか。お腹が大きくなってても、機織りはしてました。
そうそう、「井上伝さんの絣を復元しよう」という企画が、夫たちのグループであったのです。伝さんの布団絣をね。それが、2番目の子どもを妊娠中の頃ですね。その頃は、子育ても家事も仕事も並行しながらでしたから、走りっぱなしね。今振り返って思うと。
―母でありつつも仕事にも全力という感じで?母、妻、そして働きながらご自身の居場所を作ってこられた印象です。その頃に、反物だけだった生産を色々な品を生み出す方向へ変えてこられたのですか?
そうですね、私が嫁いできた頃は反物だけの生産。それこそ座敷に何百反と反物が並んでいて。1月から春先に年間分をためて、それを売り切るって繰り返しだったんです。洋服を作るようになったのは、私が「自分でも久留米絣着たい」と思ったのがきっかけです。自分のスカートやベスト、子どもの小物を作って子どもの行事で出かけたりしてね。その時に「私にも作って!」とお声がけをいただいたら、嬉しくてね。それで作るようになったんです。
この辺りの皆さんも最初はハギレを買いに来られるくらいで、当時は、久留米絣を洋服に使うっていう感じではなかったですよ。時代としては、普段着は既製品を着るけどちょっと他所に出かける服はオーダーをしていた時代。だから、「1着からのはじまり」です。1着が2着になり、3着になり、やがてラック1本分になり。自分で制作は出来ないから、「ばっ!」って閃いて「こうして欲しい、ああして欲しい」っていうアイデアを出して、デザインを起こしてもらって縫製してもらって。
思いついたアイデアがあったら一旦試作して、それで着てみるわけです。今着ているこれは・・・もう6年位になるかな。大事に着ていれば、何年でもきれいに、そしてお出かけ着にも出来ますよってお伝えしています。長年うちに来て下さっているお客様の中には「これ、10年近くになるよね!」って言って下さる方がいますよ。私自身、流行にとらわれすぎない、シンプルなもの、長年愛用できるものが好きです。久留米絣の良さがね、本当に伝わると思います。
そうそう、子どもたちがまだ小さい頃に夫がヘルニアで入院したんですよ・・・40代前半に。その頃は大変だったですね。丁度1番上の子が中学生。朝ご飯作って仕事して、染めもして配達もしてだとか。
藍瓶の調子は、夫に観てもらったり。縦横絣は大変だけど、その他で図案を書いてもらって、とにかく自分が出来る範囲で。丸1年位はその感じでしたね。もう本当に寝る時間が無い位。子どもたちにもその頃は辛抱してもらいましたね。子どもたちが寝静まったら涙がほろりと出たりね。
―「目の前のやるべきことに、とにかく向き合わねば!」という感じですか?
ホント、そうでしたね。夫は「もう頑張らんでいいよ」っていうけどね、もうやることが多すぎてね。体がそんな風になっているから、何にでも一生懸命やりすぎてちょっとね。だから大悟たちが入って、ちょっとゆっくりになりました。
「日常の光景」から湧き出るアイデアや心配り
―嫁いできて久留米絣の世界に飛び込んで・・・目が回る忙しさの中でも、思いついた事をどんどん商品化されていったんですね?
あの頃は・・・世の中で洋服が多くなって、和服を着ている方がどんどん減っていったから、藍染めだけでは厳しいなと思って、色染めを始めたんです。洋服は色合わせも大事でしょう?だから、近くに少量でも色染めして下さるところを探してお願いしたりね。失敗もあったけれど色々作ってきました。だから、藍染めをしつつも、色染めを扱えているんです。
―その機会も大事ですね。その色ものをきっかけに池田絣工房と出会うお客様もいらっしゃいますものね。
どちらにしろ、絣っていうのは肌触りや着心地ですよね。やっぱり長く着ればどんどん良くなる。暑くても寒くても着ることが出来るのが良いですよ。1年中使えますから。
―今扱っている商品群について、「うちの特徴はこれ!」というところを教えて下さい。
デザインかな。シンプルで、体型にあんまり影響されずに着られる感じのデザイン。「私にはちょっとその大きさは無理よ」っておっしゃる方にも、その方に合うように身幅や袖丈、着丈を変えてあげられるっていうのは、織元が作っているからこそ出来ることかなと思いますね。あとは仕事が丁寧なことかな。サイズやデザインの変更、そういうお願いにも対応してもらえる縫製が出来る方を探して、お願いしています。
―日々、「あ!あれ作りたい、これ作りたい!」ってアイデアが湧いてくるんでしょうか?
何となくですけれどね。例えば街に出たとしたら、限られたところを見るんじゃなく色の感じや形や・・・色んなところを見て回ります。一旦出たら、アイデアの種を見つけてくるというかな。「久留米絣にこう持ってこれるかな」というか。色の組み合わせとか、本当に素敵なものはきれいでしょ?
―素敵なものを見て、ご自分たちの久留米絣に還元していきたいっていう?
そう。和服だけじゃなく、洋服もキッチンまわりも色々なところを見て回ります。ヒントは色々とありますよ。夫と一緒に見て回るんです。夫婦で一緒に行ったりするのは、他のところに比べると多いかな?
それと・・・夫も私も同じ思いですけど、皆さんに着ていただきたい、身につけていただきたい、ここに気軽に来ていただきたい。井上伝さんもそうだったでしょ?「地域の皆さんに久留米絣という仕事を普及する、着てもらう」というのが原点。大勢の方に手にとっていただきたいし、久留米絣をどんどん使ってもらいたい。
―確かにそういう方向性であれば、久留米絣に携わる方も増えますね。
そうですよね。実際に今、うちに来て下さっている織り子さんたちは、「久留米絣?初めてです」という方が多いです。自然に集まってくれた方たちが仕事してくれています。だから、働いてくれる方たちに恵まれて工房が成り立っていると思います。「女性が仕事しやすい環境にしたい」のはそこですよね。何となく「今日は雰囲気どうかな?」というのとかね、気を配ってね。仕事を一緒にしてくれている皆さんは、家族みたいなものですから。
―今後は、4代目の大悟さんたちにお仕事がシフトしていく過渡期ですね。
そうですね。これからはこの人たちが作っていく時代。この工房を変える時も、最初のうちは「これ以上忙しくなるのは厳しい」と思って反対してたんですけどね。いざ変わったら、昔からのお客様、馴染みのお客様、そして新しいお客様も増えてきたから嬉しいですよね。身体が不自由な方や、色々な方が気兼ねなく来て下さるようになって。
ガラス越しに作業風景が見えるこの感じも、最初は反対でしたよ。でも、いざやってみたら中に入らずとも作業を見ることが出来て、機織りの音が聴こえて。お客様も雰囲気を体感できるんですよね。コロナ対策にもね。織り子さんたちもお客様に着ていただくと嬉しそうです。
- 池田絣工房4代目の大悟さんと美智子さん
そうそう、織子さんたちの子どもたちが小さい頃ですけど、夏休みとかはお母さんと朝一緒に来て、うちの子が一緒に遊んであげて、みんなでご飯食べて、あの機織りの音を聴きながらお昼寝してましたよ。
―そう考えると、この地の女性たちが手につける仕事としては素敵なお仕事ですよね。
本当にそうですよね。うちの場合は織り子さんの生活に合わせて仕事をしていただいているので、気兼ねなくやってもらえる感じですね。
- 店舗のガラス越しからは、織子さんが生地を織る様子とその音が聴こえる
―織り子の皆さんが「ここは雰囲気が良いんですよ」って、風通しの良さをおっしゃっていました。
手作りした料理をおすそ分けしたりとかね、みんなで最年長の織り子さんのお誕生日(なんと90代の織り子さんがいらっしゃるのです!)のお祝いをしたりとか、餅つきをしたりとかね。4世代の家族みたいです。
代替わり。これからの工房は
―4代目・大悟さんたちに「こうなっていって欲しいな」というのはありますか?
私たちの代のやり方では、やっていけなくなると思うんですね。自分たちの思う「新しい仕事の仕方」を模索していって欲しいですね。伝統産業で職人さんが少なくなってきていますが、その時代その時代で、変わっていくものだろうと思うから。自分たちで作り上げていって欲しいですね。
―これからは、ご自分たちはあまり無理をせず、大悟さんたちの代を応援ですね。
そうですね。でも身体がきつくてもやっちゃうんですよね。気持ちが先にいっちゃうというか走っちゃうというか。夫には「頑張らんでもいいけん」って言われるんですけどね。この仕事は良い仕事だなと思いますよ。定年は無いし、やることはいっぱいあるし、ずっと現役でいられるし。義母も80過ぎまで元気に働いてましたし、義父も2回倒れましたけど、復活して仕事してましたしね。
―愛用されているお客様たちとの関係性も、ずっと続いていくんでしょうね。
ずっと来ていただけるお客様がいらっしゃるんですよ。本当に喜んでまた来ていただける。信頼関係を作って、お互いにずっと年を重ねていっているから。商品もね、ずっと大切にしてくれてね。友だちもそうですよね。いつもべったりじゃなく、たまに「どうしているかな」ってなって、お互い気に掛けあう関係の方が長く続きますよね。仕事でつながる方とも「人と人」というつながりがあってこそ、「良いモノづくり」が出来るというかね。信頼出来る方とつながった、だからこそ長く仕事を続けていられるかなと思いますね。
―3代目と美智子さんが築いたお取引先やお客様との信頼関係を、大悟さんたちが引き継いで。それを丁寧に育てていって欲しいですね。
初代が宗一さんっていうんです。丁稚奉公で苦労しながら仕事を覚えて藍瓶をたてたのが始まりで、そこから続いているんですよね。この人がいたから池田絣工房があるんだなぁって。そして久留米絣を生み出した井上伝さんは「周りの農家の仕事を増やしてあげたい、収入を増やしてあげたい」って皆さんに教えてあげているんですよね。技術をちゃんと教えている。だからこのあたりに織元がいっぱい出来て。女性がいっぱい働けて。それが原点だから、やっぱり「人と人」のつながりですよね。
―今日は、「制作者としてのインタビュー」を想定してきたんですが、実は「職業人」でありつつも「妻として母」としての美智子さんのお話にもなりました。「家内労働である織元の在り方とは」ということを、すごく考えさせられました。先程、織り子さんのお子さんの話もしてらっしゃいましたけど、きっと「みんなのお母ちゃん」という感じなんですね。それと、「時代にフィットしていく織元の在り方」「この地に久留米絣のある光景を残していくには」ということを考えていらっしゃっるのが印象的でした。工房の皆さんもすごく雰囲気良くお仕事されていて、この空気感は「池田絣工房だからこそ」なのかもしれませんね。「良いタイミングでお仕事を継承されているのだろうな」とも感じました。
とにかく代替わりしたらこの人たちに任せた方が良い。その方がスムーズですよ。今はスピードが大事でしょ。それは、上手く移せていっている段階かなぁと思います。私たちも今から、元気なうちに生活を作り直してね。そして、生涯現役、いくつになってもね。夫も好きな仕事ですから、元気なうちはやっていくと思います。ゆっくりしようと思ったらできるんでしょうけどね、ゆっくりできるかしらね。けど…性格でしょうね・・・ずっと走っちゃうでしょうね!ふふふ。
こうして継いでくれたからには、大悟たちも「やるしかしょうがない」でしょ。前へ一歩でも前進してやっていってもらいたいですね。そして自分たちは元気で!長生きで!生涯現役でいきたいですね。
PROFILE
- 池田 美智子MICHIKO IKEDA
- 池田絣工房 プロデューサー
- 1978年に池田光政と結婚。何も知らないところから絣づくりを始める。平成元年に重要無形文化財久留米絣技術伝承者に認定。令和二年に重要無形文化財久留米絣技術保持者に認定される。独自の発想で絣のデザイン、洋服などの製品プロデュースも行っている。